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 八幡神社 絵馬の旅③ 加藤文麗画「白馬図」
September2014

安永9年(1780年)奉納 加藤文麗画「白馬図」

めっきり秋らしい気候になってきましたね。

さて、今回取り上げる絵馬は、当HPの「由緒・歴史」でも取り上げています加藤文麗(ぶんれい)画の絵馬です。

加藤文麗は、宝永3年(1706年)生まれ。大洲藩3代藩主加藤泰恒の6男で、本名を加藤泰都(さと)といい、大叔父である加藤泰茂の養子となって家督を相続しました。寛延3年(1750)には、従五位下伊予守に叙せられています。この絵馬にも「伊豫守 藤原(藤原は姓。名字は加藤)泰都画」とあります↓(写真クリックで拡大)。

文麗は、歴代の大洲藩主同様に幼い頃から絵画に親しみ、その才能を発揮。狩野派の巨匠である法眼周信に師事し、その後、狩野派の画家としても活躍しました。関東南画の巨匠として知られる谷文晁の最初の師であった事実からも、その実力がわかります。この絵馬も馬や口取りを描く線がとても上品で印象的です。右の口取り?さんの表情が涼しげなのがいいですね。

この絵馬は、ご祈祷を行う中殿に掲げられているため、残念ながら通常参拝ではご覧いただくことはできませんが、ご祈祷でご来社いただいた際には、じっくりご覧になっていただければと思います。

 

 

 


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明治30年(1897)奉納 「日清戦争凱旋兵士 水禍之図」

前回は幕末に描かれた「大洲藩武成隊 奉納絵馬」を紹介いたしましたが、今回はその隣に掲げられている、明治30年奉納の「日清戦争凱旋兵士 水禍之図」をご紹介します。

吹き込む雨風などによってかなり色あせてしまっていますが、白壁の町並みに川と船、そしてその上に渡された板とたくさんの人らしき姿が見えるでしょうか↓(画像クリックで拡大)。

これは、明治27年に始まった日清戦争が終わり、明治29年6月、従軍していた大洲出身の将兵達が凱旋したときの様子を描いたものです。場所は、現在の肱川橋の少し上流あたり。当時の橋は浮かべた船の上に板を渡した浮き橋でした。橋を渡る凱旋兵士を出迎えようと数百人が一気に橋を渡りはじめたためにその重みでバランスが崩れ、多くの人が川に投げ出されてしまった様子が描かれています。私が昔話として聞いた話では、流れが速く大洲城下の淵あたりまで流された人もいたのだとか。

被害状況が気になるところですが、絵馬に書かれた解説文に「然れども一人の負傷も●ざりしは 実に不幸中の幸い(一部判読不能)」とあることから死者はおろかケガ人も出ずに済んだようです。戦火をくぐり抜けたのに、故郷に凱旋したとたんに悲劇が・・・なんて出来事でなくて本当によかった^^;

私(禰宜)が小さな頃(30~35年前)は、祖母や神社にいらっしゃる古老から何度が聞いた記憶がある話ですが、今はもう語る人もいなくなってしまいました。だからこそこの絵馬は、そのことを記す貴重な記録。地域の大切な財産としてしっかり守って参ります。

 

 

 

 


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当社の拝殿、中殿には多くの絵馬が奉掲されています。ご祈願等で中に入られた方は興味深く見て行かれるのですが、なかなかじっくりご覧いただくことも、ゆっくり説明することもできないのが実情です。

そこで、歴史資料の整理の意味も込め、当社に奉掲されている絵馬等について少しずつ紹介していきたいと思います。

 

 その① 大洲藩武成隊 奉納絵馬

当社の拝殿(一番手前の殿)に入って右手に掲げられているのが大洲藩武成隊奉納の絵馬。縦150cm,横220cmと巨大な絵馬です。

大洲藩武成隊とは、慶応三年(1867)に編成された、いわば藩の軍隊です。尊王派である大洲藩は討幕に加わり、王政復古の大号令後には、甲府城警備のために兵二小隊の派遣が下命されます。このときに編成されたのが武成隊でした。

甲府へと派遣された武成隊は、無事甲府警備を終えて東京まで戻ったものの、会津藩を中心として東北諸藩が朝廷に反旗を翻したため、急遽奥州に出張となります。海路よりより奥州平潟に上陸した武成隊は、薩長の軍に伍して平潟の征討に参加、輝かしい武勲をあげたといわれています。

この絵馬はこの時の戦況を記録して奉納されたもので、今泉のあたりに陣する攻撃部隊の陣屋の様子を描いています。幕に描かれた大洲藩の蛇の目の紋、見えますでしょうか?(下の写真クリックで拡大)

蛇の目の紋が描かれた陣幕、そしてその左下側(白い部分)にかろうじて「大洲」という字が残っています

 

また、絵馬の左右には、当時の戦況が記されています。

<武成隊の記(原文は漢文)>

征奥の役、我が軍長駆して仙台に逼(せま)る。八月二〇日黎明賊を破る。かつて舎を焼き従兵をもって我が諸砦を襲う。我が列藩各隊は憤戦激闘寅より酉に及び、遂に大いにこれに克つ。この日我が藩隊は駒嶺と今泉の際に在り。而(しか)して賊と興す。後、賊堅を辟き、其の封彊において以て抗戦す。我が亦(また)営を設けて、山谷之険に於て以て之にせまる。而して如正相生じ、虚実相伺い、賊と封営対峙する者殆ど四十日矣。賊勢尚熾(さかん)にして、我が軍皆一死報国を請(とな)え、毎戦連捷(しょう)、終に巣窟に入る。而して我が兵隊亦全軍を碍て凱歸(き)す。乃(すなわ)ち、此の図を写し、併せて顛末を叙し、以て祠前に献ず。実に明治戊申秋冬也。  仁井 鮮書

 

私が子どもの頃は、絵も文字ももっと鮮明に見えていたのですが、拝殿は吹きさらしということもあり、残念ながらだんだん劣化が進んでいます。将来的には拝殿に壁をつけていかねばと考えています。

 

 


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