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 由緒・歴史
八幡神社の由緒・歴史について

江戸時代に描かれた八幡宮古図・豫州喜多郡鎮座之記 創建は聖武天皇の御代、天平年中(729~749年)と伝えられています。伊予の国喜多の郡矢野の郷なる「矢野の神山」(神社古文書では出石寺山であろうとしている)に鎮座されていらっしゃったのを、鎌倉時代に現在の地にお遷ししたといわれています。
 
土御門天皇の御代(1196~1231年)、伊予の守護職であった梶原景時は、喜多一郡を敷地と定め、当社に150貫の地を寄進し流鏑馬を行い、春秋の祭りを厳かに執り行いました。
 
その後、戦国期になるとこの地の社寺は荒廃し当社も一時的に衰えますが、文禄3年(1594年)に大洲領主となった藤堂高虎公は、「古例ヲ興シ、祭リノ神業昔ノ例ニ仕フマツレ」(豫州喜多郡鎮座之記)と一群に厳命。当社においても、その荒れ果てた様子を憂い、神殿祭祀をことごとく古に復して、神領を奉り、春秋の祭りを復興させました。
崇敬の念篤い高虎公は、慶長13年(1608)に伊勢国津藩に転封になった後も、当社の春秋の祭には代参を遣わせるほどでした。
 
その後、元和3年(1617年)に加藤貞泰公が藩主となって後は、大洲6万石の総鎮守「八幡宮」として社費一切は藩費をもって賄われ、神宝を献じ社殿を造営するなど、特別の崇敬を受けました。当社拝殿の扁額にある「八幡宮」の文字は、加藤家と縁戚関係にあった老中松平定信公の揮毫によるものです。

昭和63年頃の境内。拝殿がまだ檜皮葺のままになっている。 現在の社殿は、慶安元年(1648年)に社殿が火災に遭い、神宝等ことごとく焼失したため、50年後の元禄11年(1698年)、藩主加藤泰恒公により建てられたものです。このような規模で三殿(御殿・中殿・拝殿)が随神門(神門)と正しく並び、桧皮葺き(現在は銅板葺き)であったのは当時県内では当社のみで、社殿としては関西でも有数の規模とうたわれました。
 
言い伝えによると、三殿のうち、本殿の造営費は大洲藩主が拠出し、中殿は御家来衆が、そして拝殿は大洲領民が寄進し造営されたといわれています。まさに、地位身分を超え、大洲に住むすべての人々の力によって建てられたお社だといえます。
 
本殿及び棟札は大洲市の重要文化財に指定されています。

江戸時代に描かれた八幡宮古図
豫州喜多郡鎮座之記
昭和63年頃の境内。
拝殿がまだ檜皮葺のままになっている。

大洲藩と八幡神社

大洲城と八幡神社社叢(右側の山)

歴代藩主の特別な崇敬を受ける

当社は古より歴代領主・藩主の崇敬を受けてきましたが、その結びつきが最も強くなったのは、元和3年(1617)、加藤貞泰公が藩主となってからです。大洲領総鎮守として、社殿を新しくし、神宝を献じるなど特別の崇敬を受けました。以降、歴代藩主は、必ず正月2日に正式参拝を行いました。江戸在府のときは代参をたて、毎月朔日には初穂料を献じ代拝せしめました。これは廃藩後の昭和21年まで続きました。
 
大洲藩主参拝の行列は、江戸城へ上るときの行列と同じく「八八の供」でした。八八の供とは、ある部分の供が八人ずつになっていたことからそう呼ばれたもので、藩主の行列中最高の行列とされました。気品ある独特の歩調が特徴の八八の供は、11月2日に行われる御神幸祭(お成り)の行列に今も受け継がれています。

お成り(御神幸祭)のページはこちらから
中殿に施された大洲藩の蛇の目の紋
中殿に施された大洲藩の蛇の目の紋

境内に残る大洲藩

社殿には、歴代藩主が奉献した絵馬が残っています。その中には、谷文晁の最初の師として知られる加藤文麗(加藤泰都)の筆による絵馬も奉献されています。文麗は3代藩主加藤泰恒公の6男で、幼少より絵の才能に優れ、高じて狩野派の画家となった人物。その子の泰衑は6代藩主となっています。
 
中殿に掲げられている絵馬の中で一際目を引く大型の絵馬は、10代藩主加藤泰済公が奉献したもの。幅6尺を超える大きさで、大洲藩のお抱え絵師、源惟正(若宮養德)の筆によるものです。
崇敬の念篤い泰済公は雅楽も修め、八幡神社の祭礼の際には伶人(演奏する人)として奉仕し、羯鼓(かっこ:小型の打楽器)を奏したことが記録に残っています。
 
また、境内には大洲藩主加藤家の祖神を祀る三祖神社があります。同社は文化3年(1820年)、10代藩主加藤泰済公の時代に創建されました。御祭神として藩祖加藤光泰公(光烈命)、その祖先の藤原鎌足公、さらに祖神の天児屋根命、武甕槌命(春日大明神)をお祀りしています。かつては毎年3月25日に例祭が行われ、藩主の奉納による神楽が行われていました。この例祭は現在も春祭りとして続いており、有志の手で毎年お神楽が奉納されています。

加藤文麗(泰都)筆の絵馬・加藤泰済公奉献の絵馬
加藤文麗(泰都)筆の絵馬
加藤泰済公奉献の絵馬
文政3年(1820年)創建の三祖神社
文政3年(1820年)創建の三祖神社